心剣練磨について
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◆神刀流武道 「心剣の錬磨について」 日比野正明 著書 「日比野雷風」より |
日比野正明(二代目宗家) 昭和23年1月 没 |
正明著書 「日比野雷風」 |
雷風いわく 神刀流の武術の修行は、その目的は何拠に存ずるや。 「一剣の敵に対する一剣を学ばん為になさるべきか。否、神刀流の修練の目的は実に心剣の錬磨にあるのである。」と。 如何に武術に精しくとも、如何に技優とも精神的に欠くる処あれば魂なき人間と等しく、何の価値もない。 確固たる不動の信念は、個性の修行錬磨にある。尚、運用の妙は一心に在る。 心剣の妙味は一人に対するも、千人に対するも、万人に対するも同一の態度に於て武術の真価は発揮する処にある。 心剣の運用は、いかに武術、戦術のみではない。転じては政治にも文学にも宗教にも、その他あらゆる一切に運用し得る。即ち運用の妙は一心に在ると信じ、雷風は心剣の境地を発揚することこそ武術に対する唯一の光であると喝破したのである。 一剣の技の学びは崇高なる精神の錬磨をなす処に真の武術修練の効果ありと雷風は心剣の唱道に努めた。 誠に神刀流の武術は心剣の錬磨にあるのである。 心剣とは、形の剣にあらず、高き精神の錬磨なのである。 雷風は、常に語るとき、「心剣の良き使い手たれ。腕の優劣より確固不動不変の信念の所有者たれ。神刀流武術の錬磨は心剣即ち活人剣の錬磨にある。」と。又、武術を修練する真意は質実剛健なる精神と肉体を兼具せしめ正しき道を歩くのである。 神刀流に於て雷風が一門に話す語録について下記に述べる。 飢ゆるも空腹を訴ふ可からず 痛くも苦貌を偽さず 憂ふるも愁容を見はさず 憤ふるも怒態を偽さず 事態に狼狽せず 金銭に憾わず 酒食に溺れず 正を執って曲がらず 義を守りて傲ず 量は広きと海の如く 志は高くと山の如く 節は堅きと石の如く 心の清きこと玉の如く 道を重んずるや先哲の如く 上記の條々神刀流門人が平素に於いて心がけ、以て相守り、以て剣法修業すべし。以て腰間三尺の剣に対して恥なきを期すべし是。 |
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