元治元年8月
鹿児島県千石町に生まれる。
二歳の時、父である薩摩藩の刀鍛冶日比野源道義と中山道を江戸に上る。
埼玉県に居住、浦和市、尾上市、大宮市(現さいたま市)与野市(現さいたま市)で子守の奉公をする。
当時、廃刀令が施行される中、貧困の少年時代に一生を剣の道で生きようと撃剣の道に邁進する。
日比野雷風 15才
埼玉県大里郡沼里村の大河原村長に剣術教師と招かれ、門弟100名と共に毎日猛烈な稽古を行う。
(以下、雷風と表記)
明治12年 16才
東京に出て湯島天神下にささやかな道場を開設「撃剣指南所日比野正吉」の看板を出す。その後、門弟2名を伴い、剣術修行の旅に出る。
明治21年 25才
「日本の近代剣舞の基となる神刀流剣舞術の開眼」
明治21年、開成学校(現在の東京大学)にてはじめて撃剣の会が催される。
その当時、日比野雷風の門下生であり開成学校の生徒である、後の貴族院議員 若林賓蔵氏、北海道銀行総裁 馬場 渉氏、司法大臣 小山 松吉氏が学生として居り。当日は、皇太子殿下 (大正天皇)をお招きしての会でした。
この日、宮内庁の剣道教師として高名な根岸信五郎氏と日比野雷風が、皇太子の御前にて試合をすることに決し、日比野雷風は今日の光栄に感激しました。しかし、残念ながら急拠 根岸信五郎氏不参加のため、他の剣道教師や学生等と稽古をし台覧の光栄を賜りました。
その時、皇太子御附武官の杉山直弥大佐より自分の家に訪ねてきてほしいとの話を頂き、翌日の朝杉山邸に伺います。
この日こそ、神刀流の前途に重要な影響を及ぼす日となるのです。
この時、杉山直弥大佐の、「国家の隆盛は国民元気の象徴によって定まるなり、此処に武士道精神の普及の先駆者として奮闘し、一層、剣道に就いて深く研究されよ」との言により、雷風は深く決する処ありて、杉山直弥大佐の紹介により文学博士、重野安釋氏を訪れることになります。
重野安釋先生が日比野雷風に語って聞かせたところによると、
「昔、中国の漢時代から唐時代、宋時代にかけて文学の振興と共に剣舞も盛んに行われ、文武二道でその精神は一致していました。剣を用いた舞は我が国の神楽の中にも見られます。また、我が国の剣道も中国の剣舞の型を採ったものらしく、それが更に変化して舞楽となり、演劇となり、舞ともなった」との内容でした。
後生、技巧に走り、変化の工合はすこぶる進歩しましたが、其の根本の武的精神は疎かになってきた。実に剣道の淵源は斯の如く遠く且つ深く一朝一夕のものではないと重野博士は文武二道について力説されました。そして、雷風は古道の復興と精神体力の復興に努力する事が自己の使命なりと剣舞術の創建という新しい独創の世界に邁進していくべく、懸命に己の使命の完成に努力することとなりました。
1890年(明治23年) 27才
雷風は日本古来の剣術、居合術を基本の形として柔術、空手に舞踊の舞の要素を取り入れ、芸術的色彩を加えて神刀流剣舞術を開眼し、神刀流武道、撃剣・剣舞術・居合術として世に発表しました。
時あたかも国家建設の意気盛んなりし明治の時代、雷風の神刀流剣舞術は全国に知られていきます。
「明治23年に始まる、日比野雷風の「神刀流剣舞術」は、明治39年に「神刀流剣武術」として変化し、教範を出してゆきます。」
その後、雷風は、神刀流撃剣・剣武術・居合術を広めるべく精力的に全国各地に活動を開始し、近代剣舞の基となる各地の門弟の育成に力をいれていきます。
以上のように神刀流剣武(舞)道は、武道の精神性なくしてはあり得ないのです。
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